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境内のご案内

摂社・末社~境内にまつられている神社~

佐佐木神社

佐佐木神社
ご祭神 少名彦名命、宇多天皇、佐佐木四郎高綱公
ご神徳 武道上達、家門隆昌、心身健康
例祭日 十月十九日

ご由緒

佐佐木四郎高綱公は源頼朝公の命を受けて河崎山王社(稲毛神社)の造営奉行となり、砂子に館をかまえて改修工事にあたられました。高綱公は邸内に祖神を祀(まつ)る近江の沙沙貴神社の分社を建立し、朝夕篤く尊崇しておられました。公の没後、里人は遺徳をしのんで公の霊をも合わせ祀り佐佐木明神として崇敬しました。この佐佐木明神ははじめ街道沿いの宗三寺のはす向かいにあって同寺の管理のもとにありましたが、明治初年、神仏分離令によって稲毛神社の管理となり、さらに、明治末年、合祀令によって、当所に遷されました。

現在も、宗三寺において江戸時代に佐佐木氏子孫の間宮氏が残した「佐佐木明神由来書」および同氏奉納の小太刀が保存されています。 なお、江戸時代には河崎山王社で毎年十月十九日に盛大な相撲興行がおこなわれていました。佐佐木明神の祭礼を祝ってのことと思われます。 現在も近郊の佐佐木氏の子孫の方々によって例祭が行われています。

浅間神社

浅間神社
ご祭神 木花咲夜姫命
ご神徳 農業、養蚕、山林、酒造の守護神、縁結び、子授け、安産の神
例祭日 六月一日

ご由緒

当浅間神社はもと稲毛神社境内の小高い築山の上にまつられていました。江戸時代末期、川崎の生んだ偉大な宗教家・西川満翁徳行(天保4年、1833没)を先達として富士浅間講「タテカワ講」が組織され、当浅間社が日常活動の拠点であり富士山登拝の出発点でした。幕末、幕府の命により結社が禁止されたためタテカワ講は衰えましたが、その後も近在の人々から篤く尊崇されています。

左右の石碑に見える元山満行(嘉永2年、1849没)は満翁の子、明山徳行(明治2年、1869没)は満翁の養子で、ともにタテカワ講の後継者でした。

和嶋弁財天社

和嶋弁財天社
ご祭神 市杵島姫命
ご神徳 国家安泰、航海安全、交通安全、豊作豊漁、音楽の神、技芸上達
例祭日 四月二の巳日

ご由緒

古くから河崎山王社(稲毛神社)の弁天池(放生池)の島「和嶋」にまつられていて、近郷の人々の崇敬篤くいろいろな信仰的、文化的な催しが行われていました。特に、神池から流れ出る小川のほとりで行われた「曲水の宴」は優雅なものであったと伝えられています。手水鉢は宝暦6年(1756)に奉納されたものです。

曲水連歌碑
桜かげうつる和嶋の水の面は音なき花の浪ぞよりくる (弘化4年、1848)
おのづから花の光し妙なれば朧月夜もおもしろきかな (岩田専永、年代不詳)

大鷲神社(おおとりじんじゃ)

大鷲神社
ご祭神 日本武尊
ご神徳 五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、交通安全
例祭日 十一月酉日(酉の市)

ご由緒

当大鷲神社がここに祀られた正確な年代は分かりませんが、江戸時代末期か明治初年のことと思われます。

日本武尊は父景行天皇の命を受けて、熊襲・東夷征討にあたられ、数々の武勲をあげられた英雄神ですが、死後、その御霊は白い大鳥となって天に昇って行かれたところから尊を祀る神社は「おおとり神社」と呼ばれます。

大鷲神社のお祭りである酉の市には農具の市が立ち鶏なども売られていましたが、江戸時代後期、「大取り」と理解して、熊手で集め枡で量るほど作物がとれ、商売が儲かると言う民間信仰が生まれました。 やがて、稲穂、恵比寿大黒、おかめ、千両箱、宝船などあらゆる縁起の良いものを飾り付けた熊手や枡が売られるようになりました。

当大鷲神社の酉の市も、例年、生業発展、家内安全、交通安全などを祈る善男善女で賑わい、川崎の初冬の風物詩となっています。

堀田稲荷神社・第六天神社

堀田稲荷神社
ご祭神 宇迦之御魂神、豊受媛神
ご神徳 食物神、五穀豊穣、商売繁盛
例祭日 四月第一日曜日( 稲荷講さくら祭り)
第六天神社
ご祭神 於母陀流神、彩珂志古泥神
ご神徳 安産繁栄、技芸上達
例祭日 四月第一日曜日

ご由緒

堀田稲荷神社・第六天神社

両社は江戸時代には堀之内にあり、川崎宿の旅籠屋、商人、芸妓たちや近郷の人々が篤く信仰していました。神仏習合の当時、第六天神社には「他生自在天(たけじざいてん)」が祀られており、人々はそれを多芸自在と読んで技芸上達と安産の神として崇敬してました。

明治39年、川崎競馬場建設の際、鎮座地が馬見場への通路に当たったため稲毛神社境内に遷されました。あたかも同年は日露戦争戦勝の年であったため、凱旋兵士を招いての戦勝祝賀会をかねた盛大な遷宮祭が行われました。以後、近隣の人々によって「稲荷・第六天講」が結成され、毎年例祭が行われています。

子神社(ねのじんじゃ)

ご由緒

子神社

当神社は、江戸時代には須河原(現在の旭町、港町)に祀られていて、里人から篤く信仰されていました。

明治3年、須河原,久根崎(現在の旭町、本町)の人々によって建て替えられました。 社殿は総欅造りで、彫師小川清蔵による見事な彫刻がほどこされており、台石には当時の有力者の名が多数刻されています。

明治45年、合祀令により勧進主の一人森五郎作邸に移され、邸内社となっていましたが、昭和32年、森家転居の際、当所に遷座されました。なお、明治3年にはまだ川崎宿が存続していましたので、この社殿は現存する宿場時代の唯一の建物です。

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