
〜正岡子規没後100年記念句碑〜
「正岡子規没後100年記念句碑建立誌(銘板)」より抜粋
本年は近代の俳聖正岡子規の没後百年に当たる、また野球の普及に貢献した事から野球殿堂入りした記念すべき年でもある。
この時に、川崎を詠んだ子規の句から
六郷の 橋まで来たり 春の風
を撰び、川崎の文化碑として後世に伝える事にした。
正岡子規本名常規幼名升は慶応 3年 9月17日(1867)松山藩御馬廻番の家に生まれ、松山中学から政治を志して叔父加藤拓川(のちベルギー公使 松山市長)を頼り上京、帝国大学予備門に合格、帝国大学文科に進学した。22才の時に喀血し以後子規と号した。
叔父拓川の親友日本新聞社主 陸羯南(くがかつなん)の知遇を得、25才で同社記者となり日清戦争に従軍するも、大喀血し病床についた。脊髄カリエスで歩行困難となり、不治の病と闘いながらも「病床六尺」などに優れた随筆・評論を書き続け、明治35年 9月19日35才の短い生涯を閉じた。
本句は国会図書館所蔵の、寒山落木巻三(明治27年)春の風連句の一句で、子規の直筆そのままを句碑とした。
子規は明治27年春秋と明治33年に川崎を訪れ、大師詣での道すがら多くの句を詠んでいる。
川崎や 畠は梨の 帰り花
川崎や 小店小店の 梨の山
多摩川を 汽車で通るや 梨の花
麦荒れて 梨の花咲く 畠哉
百舌鳴くや 晩稲掛けたる 大師道
朝霧の 雫するなり 大師堂
いずれも果物好きの子規らしい句であると同時に、米麦農業から果樹農業への転換を図った当時の川崎を知ることができる。
短い生涯の最後の血一滴まで、文芸革新の道を追求した子規の情熱に敬意を表しここに句碑を建立する。
| 平成14年 9月19日 |
| 大川崎宿祭実行委員会 |
| 代表 斎藤文夫 |
| 稲毛神社 |
| 宮司 市川緋佐麿 |
正岡子規の句碑建立について
大川崎宿祭り実行委員会 代表 斎藤文夫
近代の俳聖正岡子規が明治35年9月19日、35歳で早逝してから
本年は丁度百年に当たり、しかも野球の普及につとめ、自ら野球(の
ぼーる)と称し、打者・走者・飛球など現在使用されている野球用語を
考案し、発展に貢献された人として、野球殿堂入りした記念の年でも
あります。
子規は明治27年の春と秋、明治33年にも川崎を訪れ、大師詣の道
すがら梨や麦畑の続く、当時の川崎の情景を数多く詠んでおります。
この度中島八幡神社境内に
「多摩川を 汽車で通るや 梨の花」
の句碑が建立されるのに呼応して、平成13年5月挙行いたしました
「大川崎宿祭り実行委員会」が、稲毛神社境内に子規の句碑建立を発
願いたし、国会図書館が所蔵している子規の明治27年作「寒山落木」
(巻三)の中の「春の風」連句の中から、川崎にかかわる
「六郷の 橋まで来たり 春の風」
の明るい句を撰び、子規の直筆を本小松の自然石に刻みました。
郷土の誇る詩人佐藤惣之助の詩碑の隣りに、建立させて頂きましたが、
この二つの文化碑が、香り豊かな文化の街川崎の表徴となるよう期待
してやみません。
正岡子規が詠んだ川崎の新しい風
稲毛神社宮司 市川緋佐麿
正岡子規は、明治の中期に両三度川崎を訪れ20数句を残している。
それらの句の多くに梨が詠み込まれていて、当時の川崎の名物が果物
であったことが伺える。
他方江戸時代には、芭蕉の「麦の穂」の句碑や、川崎宿名物の一つが
麦藁細工であったこと、さらには、稲毛神社の「古式宮座式」(県文
化財)の秘伝のお供え物は麦を調理したものであることなどから、川
崎は麦の里であることが知られる。
維新前後、川崎は東京・横浜の後背地として米麦から換金作物として
の果樹栽培に転換する。文明開化で手に入りやすくなった外国種を取
り寄せ、積極的に新種の開発に当たった。その結果、明治26年(1
893)には大師河原村の当麻辰次郎が「長十郎梨」を、明治29年
には大島村の吉沢寅之助が「伝十郎桃」を生み出すなど、次々と優れ
た品種が開発された。
しかし、明治末期からの工場誘致により大正中期には酸毒(公害)に
より枯死が目だつようになる。だから子規の句は麦から果樹への転換
を図って懸命に努力した川崎の一時代を映している。
この度の句碑の句も、川崎に新しい風が吹き込まれ始めたことを謳っ
ていて希望に溢れている。川崎の文学碑としてまことにふさわしく、
関係者の一人として嬉しい限りである。
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